「いじめ」に関する一考察

最近、大人も子どももいじめを苦にして自殺してしまう事件がたくさん報道されています。“報道されています”というのも、報道の数≠事件の数だと考えているから。マスコミというのは世間の関心が高まると取り上げる頻度が高まるという性格があり(“拉致事件”が好例)、もしかしたらこれまでもいじめを苦にした自殺は数多く起こっていたかもしれません。しかし私は「ちょっと待てよ」と思っています。

  • すべての人と仲良くできるというのは理想論であり、集団生活をする以上、対人関係でトラブルが起きるほうが当たり前なのである。
  • 対人関係というのは時間の経過とともに変化しうるものであり、良好な関係が永遠に続く保証がないと同時に、悪化した関係を時間が解決する可能性も大いにあり得る。

この2つは私の「持論」=「仮説」ですが、この仮説に基づいて考えると、最近の“いじめた奴はけしからん!すぐさまみんなでこらしめろ!”という風潮に違和感を感じるわけです。
特に子どもの場合、人間関係の形成が未熟なため、必要以上に相手を否定・攻撃してしまうことがあります。ただ、けんかと同じでそういう経験をいくつも積み重ねていく中で、間合いというか力加減というか、そういうものに気づいていくものなのではないでしょうか。攻撃される側も経験を重ねながら受け止め方・受け流し方を身に着けていくものなのかもしれません。
子どもの心と体は基本的に柔軟で、一晩寝ればケロリとしているものです。(この部分を否定されると、私の理屈はあっという間に破綻するのですが…)子どものうちは、いやな奴とでも簡単に“仲直り”できたという経験は多くの大人が持っているのではないでしょうか。だから、小さいときにこそそういう人間同士のぶつかり合いをたくさん経験しておくほうが、大人になって重大なトラブルを避けることができるようになるのではないか…これが私の意見です。
そういう意味では、いじめに目くじらを立てる文科省の罪は大きいといえます。小さなトラブルを乗り越えて逞しくなるチャンスを奪っただけでなく、“いじめ”をアンダーグラウンド化し陰湿なものにしてしまったのですから。また、「子どもにも人権があるんざます」と、子どもが攻撃されることに過敏に反応する一部の識者も同罪です。
ここで誤解を招かないように一言付け加えるならば、私はいじめを正当化しようとするものではありません。「いじめられるほうが悪い」などとは考えていませんし「いじめを我慢しろ」と言うつもりもありません。“いじめられている”と感じている状態から自分だけで立ち直ることは非常に難しく、周りの助けが不可欠だと思います。*1いじめる側が“加害者”で、いじめられるのは“被害者”だということに一切異論はありません。いじめは悪です。その“悪”を子どもに気づかせる方法論を述べているに過ぎません。
とはいえ、いじめられることに慣れていない子どもが中年世代になってしまった今、もはや“いじめに寛容になれ”とは言えません。個人も社会も人間関係のトラブルに非常に弱くなってしまっているからです。30代の大人が『上司から不本意な仕事を押し付けられた。私は耐えられない。悪いのは上司だ。』といって自殺してしまった鹿児島の事件が、トラブルに弱い社会を端的に現していると思います。
個人や社会が人間関係のトラブルに弱くなるとどうなるでしょう?戦後日本の教育の基本が『個人主義』だとするならば、“自分を守る”という発想が生まれるのは自然だし、“自分を守るために相手を攻撃する”という行動は必然といえるでしょう。まるでどこかの国の外交方針と一緒です。
「テレビゲームの暴力描写や過激な映像作品が子どもの攻撃性を高めている」と主張する人がいますが、こんなところにも原因があると考えることはできませんかね?
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*1:とある先生との関係で、そのへんは痛感していますから。