三蔵法師になれないなぁ

批判的な対応、つまり声かけや対応はもちろん態度として現れる支援者の「意思決定」の基準が「批判」的である場合、それは支援にとって絶対的に有効ではない。
むしろ肯定的な対応がどれぐらいできるのか、というそれが最重要だよね。
(中略)
問題だと思うことに足をとられて相手を変えよう、こうなってもらおうという対応っていうのは、その行動に目が行っている親やその行動をなんとか辞めさせようと言う支援者の思い*1しかないんだから。 本人の望んでいることはまた、別の場所にあるんだ。
http://d.hatena.ne.jp/ngmkz/20070411/1176247168

実を言うと、校内見学の際に霞は前述のこだわりのある生徒さんに「今、○○先生の所に行っちゃダメ」「○○先生の所に行くのはやめなさい」という対応をしていました。つまり、『高等部の生徒として行動してほしい』という願い(教育目標)をもとに、それにふさわしくない行動“だけ”を指摘し続けたわけです。
引用した「肯定的な対応が…」という考え方は重々承知しているし、異論はありません。一方、今日の霞は「問題だと思われることは“課題”であり、課題に対応することが“指導”なのではないか。」「期待している行動が現れる保証はどこにもないではないか。」という思いに駆られていたのも事実です。(これは教員一般の感覚ではありませんよ。あくまで霞個人の感覚ですよ。)
…と、ここまで書いて気付いたこと。「こうなってほしい」と指導することと「こうしなさい」と指摘することは次元の違う話であって、最終的に「こうなってくれた」となればいいだけの話なのだということ。「こうしなさい」という言葉を使わずに、如何にして目を向けさせ、行動するように持っていくかという話なのだということ。

…あれ?これ、以前にも書いたことがあるような気がします。ハァ…教員生活20年、成長しない自分にため息が出ます。生徒さん、ごめんなさい。

*1:原文では「思い出」ですが、誤字と思われるので訂正。